ひな祭りの歴史や由来
ひな祭りは上巳・桃の節供ともいわれます。日本の五節句のうちのひとつであり、お子様の成長を喜ぶお祝いの行事として生活に定着しています。女の子は雛祭り、男の子は端午の節句としてお祝いします。とりわけお子様がはじめて迎える節句を初節句といい盛大にお祝いします。
ひな祭りの歴史と由来
ひな祭りは3月3日の節供で、日本の五節供のうちのひとつです。五節供とは、日本の季節の節目にお供え物をして、今までの感謝と今からの実り多き暮らしになるよう願う、自然とともに生きてきた日本の心を表す伝統文化です。1月7日の人日の節供、3月3日の上巳の節供、5月5日の端午の節句、7月7日の七夕、9月9日の重陽の節供の5つで3月3日の上巳の節供は、桃の節句・ひな祭りともいわれます。
古来より人の形を模した雛人形を飾って、菱餅、白酒、桃の花などを供えて祭ります。起源は平安時代ともそれ以前とも言われています。『源氏物語』の『若紫』に『ひひなあそびにも絵画い給うにも・・・』とあり、そのころにはすでに人形(ひとがた)は女の子の遊びのひとつであったようです。
ひな祭りの起こり-曲水の宴
曲水の宴という中国発祥の、水辺に出て不詳を除くための禊ぎ・祓いを行う風習があり、これは、秦の昭王の時代から始まったといわれています。曲水の宴は3月3日あるいは3月の上巳の日に催され、『蘭亭序』に353年の3月3日には曲水の宴が開かれたとあります。この曲水の宴は日本にも伝わり、485年3月に宮廷の儀式として催されたことが、日本書紀に記されています。
曲水の宴は水辺で杯を流し、詩を読みます。ゆるやかな水の流れに乗り杯が自分の前を通り過ぎるまでに詠めなければ、その杯に入ったお酒を飲むという風流な宴で、水の精霊に対する祭りのひとつとして、不詳を流水に託して除去することが宴に変化していったのでしょう。この曲水の宴は多く絵画化されていて、京都御所の御常御殿のふすまにもその様子が描かれています。現代では、3月の最初の日曜日に太宰府天満宮でも『清らかな水の流れに、盃を流して禊祓の儀式』として催されています。奈良時代にはすでにこの宴は盛んであり、平安時代に入ってもますます盛大に行われていたようです。
身代わりとしてのヒトガタ
また、古来より日本では、祓いの道具としての人形がありました。人形は『ヒトガタ』と読み、『形代』とも言いました。人間の代わりをするものという意味です。ひとがたは自然界の邪悪なものを、人の形をしたものの持つ霊力で防ごうとしたのがその始まりであるものと思われます。病気や厄災から身を守ってもらい、あるときは穀物の害虫を持ち去ってもらうためのものであり、またあるときは、子授けや安産の祈りを託すものであり、さらにあるときにはまったく逆に、人を呪詛するためのものだったりもし、すべては生活からでる願いだったのです。たとえば病気や怪我を治すために、人形で体の悪いところをなでて神に祈ったものと考えられています。また権力者が死ぬと仕えていた人を一緒に埋めた殉死の風習をやめ、代わりに人形を入れて祭ったとも言われます。
このヒトガタが、3月の上巳の日に用いられることがありました。曲水の宴と融合し、自分の罪を人形に託すために、人形を肌身にすりつけ息を吹きかけ、これを水辺に棄て流すこともありました。これらヒトガタは『延喜式』にも認められ、『あまがつ』『這子』などとして存在しています。『源氏物語』の『須磨』に、源氏は上巳の祓いを須磨の海岸で行い、人形を海に流しています。
女の子の遊び道具
宗教儀式と固く結びついていたひとがたでしたが、やがて人形となって子供に与えられ、次第に愛らしく作られるようにもなりました。『源氏物語』の『紅葉賀』に、『ひひなの中の源氏の君、繕い立てて、内裏に参らせなどし給ふ』とあるように、幼女の遊びとして小さな人形が使われていたことがわかります。初めは、紙を人の形に切り抜いた紙人形だったのですが、次第に土製、焼き物、布の衣装を着せた人形などが生まれて、女の子のための遊び道具という地位も確立していきました。
そうして、3月3日の上巳の節供にも、女の子の遊び道具としても使われるヒトガタの人形は中世以降、次第に立派なものに作られるようになりました。上巳の節供で使われる人形が、水に流すだけではなく、置いて飾るためにも作られるようになりました。こうしてできたのがおひな様です。3月3日以外にも小正月、端午、八朔、重陽などにもひな祭りは行われ、『後の雛』と呼ばれてひな人形が使われていました。
雛祭りへの変化
ひな祭りらしい行事の宮中での記録は、1629年(寛永6年)頃、文献としてはじめて登場します。2代目将軍秀忠の娘で後水尾帝の中宮として入内した東福門院が3月3日に雛の宴を催したと記されています。その頃はまだ雛祭りといわず、古風にもひな遊びと呼ばれていたようです。雛祭りの名が一般的になるのは、江戸中期以降です。
それまで宮中、貴族の間だけで行われてきたひな遊び・ひな祭りですが、庶民の間で、書物として描かれるようになったのは、貞享から元禄1700年前後以降のようです。その本の少し以前、たとえば天和(1681~1683)頃の京の四季を描いた『天和長久四季あそび』という本にも、5月節句はありながら、雛の姿はまったく見当たりません。元禄以降になると、ひな壇の前でひな祭りを楽しむ少女たちの姿が多くの書物に見られるようになり、元禄あたりを境として、泰平の世に四季の遊楽を求める庶民たちの間にひな祭りが急速に広まっていったと思われます。
江戸時代、5月5日が男の子の節供となったのに対し、3月3日の雛祭りが女の子の節供と考えられるようになりました。宮廷の階層を真似たひな壇を作り、いっそう華やかに飾り立てた雛祭りとなっていったのです。
ひな祭りの願い
雛人形が次第に豪華なものとなっていっても、かつての人間の身代わりとしての『ヒトガタ』の意義は失われることはありませんでした。特に女性が、旅行や嫁入りの道中で災いを人形に代わってもらおうと、抱いて輿に乗ることが慣わしとなりました。そのようなことから、公家や武士などの上流階級では、婚礼の嫁入り道具の中にひな人形を入れるようになったのです。
さらには、女の子がいつの時代にもあこがれる『嫁入り』を真似た人形が作られるようになり、初めは一体だった人形が、男女2体の内裏雛となっていきました。一緒に飾られる調度品は、嫁入り道具をまねたミニチュアとなったのです。
大名の家では嫁入り後、初めての節供に内裏雛を飾り、公家では女の子の誕生を祝って雛を贈るようになりました。江戸時代中期ごろからは、庶民の間でも女の子の初節句には母方の里から雛を贈って祝うようになり、女の子のお祭りとして定着していったのです。
節日に供物をそなえ、酒宴を催す五節供は広く行われていましたが、この3月3日のひな祭りに欠かせないのが桃の花と白酒、そして菱餅です。桃の花が飾られるのはいつの頃からか明らかでありませんが、室町時代の上巳の節供には一般でも飲む白酒を桃花酒とよんでいました。これは季節の花を冠しただけでなく、中国で行われていたことを取り入れたのです。中国では、桃は邪気を祓うと仙木とされていて、西王母の桃の神話や武陵桃源の伝説があります。武陵の桃花を浮かべ、流れ出る水を飲めば気力が充実し、300歳の長寿を保つといわれていました。日本でも桃は魔よけとして使われ、ひな祭りの起源でもある上巳の節供にも、桃酒は使われていました。そのため3月3日を『桃の節句』ともいうのです。室町時代になると、桃酒に代わって、白酒が祝いの席で飲まれるようになりました。白酒とは蒸した米と麹にみりんを混ぜて作った甘い濁り酒です。菱餅の赤、白、緑の三段重ねの色は、それぞれ桃の花、白酒、草餅の色を表しているといわれます。草餅は山遊びの時に摘むよもぎを入れて作りますが、よもぎは邪気をはらう力を持っていると信じられていて、増血剤にもなります。菱餅の形は、心臓を表しているとも言われ、災厄を除こうとする気持ちや、親が娘の健康を願う気持ちが込められているのです。
また、ひな壇の前で女の子たちが集まって会食を楽しむ風景は、かつて3月に行われていた山遊びの風習を伝えたものといわれています。女の子が主役となって行うままごと遊びのような会食もまた、農耕の神様を迎えて行う、神と人との共食の儀礼と深く繋がっています。
山遊びとひな祭り
昔から日本人には、忙しい農耕や漁労の仕事に入る前の春の一日を、野山や海辺に出て遊んだり飲食をする慣わしがありました。山遊びといいます。山遊びは、今では遠足と呼び名を変えています。遠足(山遊び)の起源は大昔にさかのぼります。この日は、労働を休まなければならない物忌みの日(悪日、節日ともいいます)のひとつでした。古い時代には旧暦3月3日に行われた行事で、温暖な地方では3月3日、寒い地方では4月8日などに、『山遊び』『磯遊び』といって、みんなで野や川にでて遊ぶ風習がありました。現在でも、こうした風習は全国的に見られます。
春という季節は、山の神が里に降りてきて、田の神となり、農業が順調に行われることを見守ってくれる季節で、春にはまた山に帰っていくと信じられていました。その神はまた、死んだ祖先の霊魂でもありました。昔は人が死ぬと魂は屋根の棟にのぼり、そのあと村はずれの一本の木に宿り、一年経つと山に行って神になると考えられていたのです。祖先の霊が、時には山の神になったり、田の神になったり、水の神に姿を変えて現れるというわけです。
この、山に出かける山遊びは、神様を迎えに行く風習が姿を変えたものです。山に入って村人がみんなで飲んだり食べたりすることはまた、神と人とが一緒に食事をすることであり、直会をすることだったのです。
大阪府や奈良県でも、この3月の節供を『花見正月』『野辺節供』とか『花見』といって、老人や子供から大人まで、みんな揃って花が美しく咲き乱れた丘などに登り、ご馳走を食べて日がな一日、野原で遊ぶ風習があります。
今と同じように、山遊びの場はおおらかな男女交際の場となっていて、若い男女が歌を詠みあって結婚の約束をしたりもしました。
また近畿や中国地方で広く行われている節日に『ハルゴト』というのがあります。これも激しい稲作の労働に入る前の、3月半ばの春の一日を野遊びにあてる風習です。奈良盆地などでは、これを『レンゾ』または『レンド』と呼び、3月から田植え前頃までの一日を、春休みの行楽にあてます。そして、ツツジなどの野山の花を持ち帰って苗代の水口に立て、水口祭りを行います。この日につく餅を『レンゾの苦餅』とか『レンゾの蓑笠餅』などといいますが、これはつらい農作業を前にして食べる餅の味を、このようにいったのでしょう。
磯遊びと雛祭り
春に海岸に出かけて遊んだり、食事をしたりする磯遊びもまた、山遊びやハルゴトと同じ意味合いをもった行事です。山に近い地方では山に、海に近い地方では磯に出て遊ぶのが慣わしでした。海に近い地方では、旧暦3月3日の節供や3月~5月の大潮のときに家族総出で浜辺に出て磯遊びをしていました。
現在盛んに行われている潮干狩りも、もとは磯遊びが起源となっています。また、潮干狩りはもともと、雛流しのときに水辺に出て穢れをはらった行事が変化して行われるようになったとも言われています。都では、ひな人形を飾る雛祭りが発達したのに対して、磯遊びは九州西部や沖縄県の島々一帯などの海岸地方に最近まで良く残っていました。
沖縄では、3月3日には家にいてはいけない日とされ、村中の人がお弁当を持って海辺に繰り出し、楽しく食べたり踊ったりしてすごしたそうです。一方、東北地方でも、この日、女性や子供が浜辺で草餅を食べる慣わしがあったようです。
江戸時代の大阪では、3月3日の住吉の潮干狩りが有名でした。大阪だけでなく、近くの人々も集まって、手に手に熊手を持ち、笛太鼓、鼓、三味線などのお囃子を乗せた船を漕ぎ出し、住吉の浦から堺の裏まで人で埋め尽くすほどの盛況だったと伝えられています。
潮干狩りがなぜ3月3日に行われたかについては、雛祭りのお節料理としてハマグリやアサリなどを供える風習とつながりがあるのかもしれません。
参考になるサイト
ひな祭りの歌
うれしいひなまつり
あかりをつけましょ ぼんぼりに
おはなをあげましょ もものはな
5にんばやしの ふえだいこ
きょうは たのしいひなまつり
おだいりさまと おひなさま
ふたりならんで すましがお
およめにいらした ねえさまに
よくにたかんじょの しろいかお
きんのびょうぶに うつるひを
かしかにゆする はるのかぜ
すこし しろざけめされたか
あかいおかおの うだいじん
きものをきかえて おびしめて
きょうはわたしも はれすがた
はるのやよいの このよきひ
なによりうれしい ひなまつり
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雛人形は日本の文化です - 3月3日は女の子のひな祭り(桃の節句)で、お子様の成長を喜ぶお祝い事として日本の五節供のうちのひとつとされます。とりわけ赤ちゃんが生まれてから、最初に迎える節句を初節句といい、盛大にお祝いします。雛祭りは、緋毛氈等で区切って神聖な場所を作り、そこに雛人形を飾ってお供え物をし、女の子の邪気を払って健やかに成長してほしいと願い事をする家庭で行う小さなお祭りです。また、男の子の端午の節句には五月人形や鯉のぼりを飾ります。