川中島の戦い五人絵 豪華金箔仕上げ綿厚地綾織幟旗が安い 9.1m ダイヤ武者絵幟
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武者幟の空白の家紋入れ部分を除いた絵の部分です(家紋を入れる場所はこの絵の上にあります)。
川中島の戦い五人絵 豪華金箔仕上げ綿厚地綾織幟旗9.1m
綿厚地綾織り生地使用 - この武者絵幟は綿を使用した美しく丈夫な厚地の綾織りで作られています。綾織は(あやおり)は、縦糸や横糸が2本またはそれ以上連続して織られる織物です。そのため斜めに線が入りますが、これを斜紋線(しゃもん)あるいは、綾線と呼びます。糸の太さによって斜線の角度は異なります。布面は光沢が出て、美しく丈夫、伸縮性があり、シワも寄りにくいのが特長です。三原組織のひとつで、斜紋織りとも呼ばれます。
武将は上から順に高坂弾正、柿崎景家、上杉謙信、山本勘助、武田信玄です。
日本の伝統である友禅の技法で染め上げ、さらに両面に豪華な金箔を施した最高級品です。高い染めの技術を生かした、あざやかで美しい発色の幟旗です。
この幟は川中島の合戦の様子が絵巻のように描かれた武者幟です。 以下は川中島の戦いの概要です。
- 第1次川中島の戦い
- 1553年(天文22年)4月、村上義清の要請を受けた上杉謙信(長尾景虎)が、5,000の軍勢を率いて信濃川中島に進出。しかし武田信玄も上杉謙信も軍を積極的に動かすことなく、5月には両軍とも撤退した。
- 第2次川中島の戦い
- 1555年(弘治元年)4月、武田軍と上杉郡が川中島で対峙する。しかし戦果は無く、駿河の今川義元の仲介により、両者は10月に和睦して撤退した。武田信玄は上杉軍が越後に撤退すると、かねてから上杉謙信に通じて反抗していた木曽義康、木曽義昌父子を攻め、これを屈服させた。1556年(弘治2年)には信濃北部に進出する。
- 第3次川中島の戦い
- 1557年(弘治3年)、上杉謙信(長尾景虎)が川中島に進出してきたことにより、再び武田軍と上杉軍の対峙が始まる。しかし両軍ともに戦果は無く、さらに上杉謙信の留守中に加賀・越中で一向一揆が起こった為、上杉軍は撤退した。
- 第4次川中島の戦い
- 1561年(永禄4年)9月10日、武田信玄の軍20,000と上杉謙信の軍13,000との間で、4度目の川中島の戦いが行われた。今までの川中島の戦いでは最大規模の戦いとなり、両軍合わせて6,000人余の死者が出たといわれている。この戦いで武田信玄は弟の武田信繁、諸角虎定、山本勘助、三枝守直ら有力武将の多くを失ったという。
- 第5次川中島の戦い
- 1564年(永禄7年)にも上杉軍と武田軍が川中島で対峙したが、衝突することなく終わっている。
川中島の戦い五人絵に描かれた人物紹介
- 高坂弾正(たかさか だんじょう) - 武田信玄・勝頼の2代に仕える。武田二十四将の一人でその中でも武田四名将と言われる。海津城初代主となり、第4回川中島の戦いでは妻女山の攻撃の別働隊大将をつとめた。52歳で病没。「甲陽軍艦」は高坂の遺記を基に書かれたもの。美童であったと言われ、若き信玄の寵愛を受けたといわれる。
- 柿崎景家(かきざき かげいえ) - 上杉謙信の配下にあり、謙信より20才ほど年下でしたが、主君をもり立て、越後各地で戦って越後平定に尽力し、謙信を守って上洛にも参加しています。有名な川中島での合戦では武田軍と数度戦って敵を恐れさせました。
- 上杉謙信(うえすぎ けんしん) - 1530年、長尾為景の四男として生まれる。1548年、父の後を継いだ兄・晴景にかわり守護代となり越後の国を統一。1559年には、関東官領の地位を上杉憲政より譲り受けて上杉姓を名乗る。京を目指して能登・越中・加賀を平定したが、1578年、北条氏との戦いの出陣前に倒れ、49歳の生涯を閉じた。
- 山本勘助(やまもと かんすけ) - 武田信玄の軍師、諱は晴幸、出家後は道鬼斎と号す。三州牛久保出身。26歳より諸国を巡り修行し、天文・兵法・槍術・築城術等武芸百般を体得し、44歳にして信玄に仕える。第4回川中島の戦いでは、「きつつき戦法」を献策するも、上杉謙信に見破られその責任を感じ、本陣を守るために奮戦するが力尽きて命を落とす。
- 武田信玄(たけだ しんげん) - 風林火山の軍旗を用い、甲斐の虎と呼ばれ、率いた武田騎馬軍は戦国最強と評される。1521年、武田信虎の長男として生まれる。1541年、乱暴な父・信虎を追放し信濃の国・諏訪地方に勢力を伸ばし、さらに北信濃に進出して上杉謙信と対決を繰り返した。また駿河の国も手に入れて京を目指したが、1573年、徳川家康・織田信長の軍と戦いの最中、病気のため53才で亡くなった。
セット内容
- 武者幟(旗の大きさ 幅約90cm×長さ約9.1m)
- 小幟
- 五寸ヨリ房
- 紋入れと仕立て料金含む(異なる家紋を黒と赤で、もしくは黒で家紋と名前)。この幟は特殊家紋の場合でも型制作手数料不要です。
五寸ヨリ房、寿文字入り菖蒲柄の小幟
←武者幟のイメージ(画像はイメージです。鯉のぼりや鍾馗幟、ポール等は付属しません。)
※返品特約 - 家紋・名入れを含む商品については返品・キャンセル・途中変更不可。→返品特約の詳細
武者絵幟の名入れ家紋入れについて→家紋入れについて
武者絵幟への名前・家紋入れは2週間程度、お時間がかかります。価格は家紋入料金を含みます。
家紋入れをご希望の場合、まず『家紋入れに関して』のページをご一読ください。家紋はやり直しが出来ないため間違いのないよう、ご注文時の備考欄に、家紋一覧でそれぞれ示してある家紋の番号と名称をご記入ください。
家紋一覧のなかに家紋が無い場合、メールにて家紋の図柄と正式な名称(丸のある無しも重要です)をご連絡ください。
一般的には父方の家紋は黒色で上側に染め、母方の家紋は赤色で下側に染めます。また、最近は黒で父方の家紋を黒で入れ、お子様の名前をその下(下の写真では赤い家紋の場所)に名前を入れる場合も増えています。どのような仕様がご希望かプルダウンにてお選びください。
←上に黒で家紋、下に赤で家紋を入れた状態です。
↑名前の書体見本です。通常、2文字か3文字の縦書きもしくは横書きです。絵柄と幟の長さごとに空きスペースが異なるため、文字が大きくできる方向で染め職人の判断にお任せしています。そのため、染め付け見本と字の並び方向が異なる場合があります。縦横並びの希望が特にあるようでしたら連絡事項欄にご記載ください。
さらに字を多くすることも可能ですが、その分、字が小さくなります。名前だけの場合は、スペースが確保できる分大きい文字で染め入れます。文字の大きさはバランスを考えて染めの職人が決めます。また、上記以外の書体ではできません。
また書体特有の細かい字の違いが発生しますが、漢字の間違いではありません。字体・書体が気に入らないなどでの苦情は受けられませんので、あしからずご了承ください。
漢字・ひらがな以外の文字を希望される場合は前もってご相談ください。可能かどうか料金等を職人に聞いてご連絡差し上げます。
←家紋・名前を入れた例です。文字数が増えると字が小さくなります。
←染付けによる家紋入れです。転写やプリントではありませんので、作業による染料が付いている場合があります。
内容 | 黒・赤各1ヶの家紋 | 黒1種の家紋と 1人の名前 |
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染付け例 |
※家紋入れ・名入れは特注商品となりますため、ご注文後のキャンセルや返品、変更はできません。『1種の家紋と1人の名前』は家紋と縦の名前の画像ですが、縦書きもしくは横書きは文字が大きくできる方向で染め付けます。空きスペースは絵柄ごとに異なりますので職人にお任せするようになります。地域毎に慣例等がある場合もございますので、縦横の希望が特にありましたら連絡事項欄にご記載ください。
※幟旗は縫製品のため記載している寸法と実物寸法が若干異なる場合があります。
幟の種類によって飾り房の付いているものと付いていないものがあります。また、飾り房は強風等で壊れやすいので、お届け時についているビニール袋を取らずに被せたまま旗に取り付けてお飾りください。
五月の空にたなびく五月幟は端午の節句の飾りです。鯉幟より省スペース志向で狭い場所にも飾れるのが特徴です。鯉幟と一緒に飾ったりもしますし、地域によって幟がメインで鯉幟が脇になる場合もあります。五月幟も大きく分けて2種類有り、武将の勇ましい姿を描いた武者絵幟は武家の幟旗から生まれ、武勇と繁栄を願う風習です。それに対し、子供が健やかに育ってくれるよう金太郎や桃太郎、立身出世して立派に育ってくれるように鯉の滝登りなどがデザインされた節句幟があります。また屋外へ飾る外幟、お部屋に飾る室内幟でも分けられます。小型の室内幟は名前旗やタペストリーとして五月人形の脇に並べられています。